黒いあいつが出た。
勿論自室にである。
迷い込んできたというのが本当は正しいのかもしれない。
あるいは服か鞄について間違えて入ってきたのかもしれない。
だとすれば相当なうっかりさんである。
いや、私がではなく例の…名前を言ってはいけない例の網翅目のあいつがだ。
これでも昔は網翅目のカサカサ動くあいつなんて怖くもなんともなかった。
何故なら伊達に田舎に住んでいなかった。
だが大都会に住み始めてめっきりアシダカグモやゲジ、その他諸々の得体の知れない虫と接触しなくなった私は免疫を失いつつあった。
とはいえ、鱗翅目限定だが元々昆虫採集をしたりする事もあるので虫自体は割と平気な方ではある。
つまり網翅目の奴に対してのみ恐ろしくなった原因がある。
ある日、借家に網翅目の奴が出てきた。
恐らくヤマトゴキブリのオスと思われる個体だ。
如何なる時でも同定してしまう虫屋の性はこんな時でも発揮された。
その時はまだ怖くもなんともなかった事もあり、放置を決めこんだ。
展翅以外ではなるべく殺生はしたくなかったからだ。
そして月日は経つにつれてそんな一件も忘れた頃になり、部屋の掃除をしようと思い徐ろに机の下を片付け始めた。
そして私はついに見つけてしまう。
スミノフの空き瓶に閉じ込められ、出してくれと藻掻くヤマトゴキブリのオスを。
位置的に日光に当たらず、メラニン色素が減り赤茶けた姿だった。
奴は弱りきってもなお脱走しようと躍起になりガラスの壁を登ろうともがいていた。
瓶の口はくびれており、内側から見ると迫ってくるような傾斜の為、昆虫の習性的に脱出出来ない形状である。
もし彼がカラビナやスパイクを持っていれば登れたかもしれない。
だがしかし所詮は昆虫。元々脚についているスパイクではこの傾斜を進む事は出来ない。
言っちゃ悪いが私は大分惨めだと思った。
それと同時にこれは将来の私だとも思った。
さようなら、ヤマトゴキブリ…そう呟きながら瓶に蓋をして自販機のゴミ入れに投げ込んだ。
また別の日の話。
その昔、渋谷の道玄坂の植え込みに座り込み友人と雑談していた時の出来事だ。
楽しい談笑を終え、そろそろ立ち上がろうかと思った時である。
黒い閃光-ブラックスパーク-とでも言うべきスピードで私の服の上を爆走していった。
奴のスピードは恐らく時速20kmは出ていたと思う。
目で追った頃には既に小さくなっていた。
私の体感時間と相対的に見れば光速にも近かったのである。
大きさと立地から考えてクロゴキブリに違いない。
大きな体にパワフルな筋肉、その時ばかりは脱帽した。
ちなみに思わず悲鳴を上げたのは内緒だ。
他にも部屋に迷い込んだチャバネゴキブリを放置していたら絵を描いていた私に向かって飛んできた話、レスタミンの過量服薬でゴキブリのせん妄が出た話等色々あるが長いので割合させていただく。
そんなこんながあって気がつけば私は奴を酷く憎むようになった。
だからこそ、今部屋に出たあいつを退治しなければいけない。
最もこいつを最初に見かけたのは数日前であるが細けぇこたぁいいんだよ
天井を這っていたあいつ(恐らくチャバネかクロゴキブリの子供、多分メス)に向けてゴキジェットを放つ。
その距離およそ1m。
私とあいつの心の距離でもあったに違いない。
一寸の虫にも五分の魂、不意にそんな単語が脳裏を過ったがそんな事は関係が無い。
絶対に駆逐してやる削除削除削除削除削除ォォッッッ!!!!!
…しかしそんな勇気付けも虚しくゴキジェットを浴びたあいつはノロノロと機材置き場へ隠れていった。
ベースとシンセサイザーの影である。
楽器を退けるべきか退けないべきか。
これではシュレディンガーのゴキブリだ。
少し考えてから意を決して機材の隙間にゴキジェットを噴射する。
機材はケースに入っているので多分ノーダメージだと信じて。
ああ、殺虫剤がついた楽器ケース触るのやだなあ…
それも束の間に、意に反して奴はどこにも居なかった。となればその隣の棚である。
しかし私にはもう確認する勇気は残っていなかった。
そっと見なかった事にして就寝しようと思う。
カサカサカサ♪
ー終ー